あたまのなか研究室

ピクルス(2代目)とぶらいあん(初代)の研究室です。

『永遠の0』とはどういう映画であったか

 昨年の12月から正月映画として公開され大ヒットした『永遠の0』ですが、4月の時点でまだ東宝シネコンで上映が続いていたのにはびっくりです。『アナと雪の女王』にあっさり抜かれたとはいえ、今年の邦画興行の記録としては群を抜いたものでしょう。

 そのロングラン作品もいよいよこの5月でロードショーとしての上映が終るようです。そこで(「いずれ書く」と言って放っておいたものを)上映終了記念としてこれがどういう映画であったのかということについて少し書くことにします。というのも、ちょっと誤解されている部分があるように思うからです。
 なお、私は原作の小説は読んでいないので、あくまで映画版としての、ということはお断りしておきます。

 基本的には、この映画は「現代のある青年が、戦争中に死んだ祖父のことを調べているうちに、知られざる祖父のドラマがあることを知り感動する」というお話だと思います。あくまで青年は話を進めるための狂言回しに過ぎず、過去の話を現代に受け入れやすくするという手法でしょう。しかし、この「青年が過去を調べていくうちに段々ハマっていくプロセス」というのが重要になってきます。

 最初青年は(一般的な若者がそうであるように)過去の戦争の話に興味はなく、「祖父は海軍一の臆病者だった」と聞かされて、ちょっとイヤな気分になります。それが色々調べていくうちに、祖父は実は臆病者ではなく、凄腕のパイロットであり、妻に「絶対に帰る」と約束した「命の大切さを知る人」であったらしいということがわかってきます。

 すると段々と青年の心情が変わって来る。イヤな感じだった祖父に対して尊敬と愛着を感じてくる。まあここまではわかります。
 問題はここからです。青年は色々と人に会ったり調べて戦時中のことを知識として知る訳ですが、そうなってくるとずっと戦争のことばかり考えるようになります。そして「戦争のことを何も知らないし興味もない」友人たちに対して腹が立ってきます。特攻というシステムを感情的に擁護したりします。

 ではここで何がおかしいのかを書きます。

 ひとつは「戦争のことを何も知らないし興味もない友人に腹が立つ」こと。自分もつい最近まではそうだったのに、ちょっと知ったぐらいで「自分は本当のことを知っている」という傲慢さ。まずここで、客観的に自分を捉えることができていない。自分を見失っています。これは結局その後、友人と対話して納得させるということもする様子もないことから「自分がわかっていれば他人はどうでもいい」という独善性が見受けられます。

 また彼は「特攻に行った人間は好きで行ったのではない。国を守るために仕方なく行ったのだ」ということをもって「特攻は悪ではない」と判断します。さらに「特攻というシステムは悪ではない」と混同もしているようです。少なくとも「観ている者にそういう誤解を与える可能性」を持っています。特攻に行った人は「しかたなく行ったから悪というよりは被害者である」という考え方は可能ですが、「特攻という、一見自発的に見えながら、実質は「他人が強要する無理心中」みたいなシステムを作った人間やそのシステムそのもの」は明らかに加害者であり悪です。そこは明確にしないといけません。

 さらにラストシーンの問題があります。映画の構成としては青年が色々調べたことを劇中で「再現ドラマ」としてインサートしている訳ですが、ラストだけは違います。青年が歩道橋を歩いていると後ろから「祖父が載った零戦」が飛んできて、そのまま特攻の場面になるという非常に不可解な場面です。

 これは何かと言えば、結局のところ、この場面に関しては、祖父の話を最後まで聞いた青年が思い浮かべた「想像」と「空想」です。(現代に祖父が零戦で登場する部分は明らかに空想ですね)

 だから最後の祖父が敵艦に突っ込んでいく「かっこいいシーン」に関しては、青年の「想像」もしくは「空想」です。おそらく「こうだったらいいな」という願望が「かっこよく」したのでしょう。あの場面に関しては証言者を訪ねて話を聞くこともできませんので、「誰もそれを見た者がいない」ことがそれを可能にしたとも言えるでしょう。

 では振り返ってこの映画がどういうものであったのかを端的に表現すると「戦争に何の知識も興味もなかった現代の青年がたまたま戦時中の美談を知り、戦争に対する印象が「悪、嫌、苦」から「善、好、楽」に倒置した」という、近年見受けられがちな「若者のネトウヨ化プロセス」を描いた映画、だということです。

 さて、この映画の問題点は「戦争中にも命を大切にする人がいた=だから戦争や特攻は悪くない」と短絡してしまうことです。
 問題の「奇特な人」は「海軍一の臆病者」と言われた「非常に例外中の例外のような存在」だったと映画でも描かれています。つまり、「何十万という軍人の中の誤差のようなごく一握りの人」です。だからその人を持って「戦争や特攻の象徴」にするのはおかしな話、もっといえば、「あとになって言うには都合が良すぎる話」です。
 そして最大の問題は、あの「かっこいい」ラストシーンに尽きます。これは青年の空想とはいえ「かっこいい特攻シーン」をクライマックスに描いてしまったために、「特攻カタルシス=特攻賛美映画」と言われても仕方がないでしょう。
 (ちなみは私がよく比較に出す映画『あゝ同期の桜』(1967年)を「一見戦争賛美にように思われがちではあるが、実は反戦映画である」というのは、この映画のラストシーンの特攻場面が「これ以上ないくらいかっこわるい」ことが最大の理由です)

 ところで、よく言われる、あれほど命を大切にしていたはずの祖父がどうして特攻に志願したのかの理由ですが、私にもわかりません。「後輩がどんどん死んで行って精神的に耐えられなくなった」というのは「ヤケクソ」よりは説得力がありますが、そんな精神不安定な状態ならば、最後あんなに「かっこよく」特攻攻撃ができるのか、という疑問が湧きます。それを説明できる理由は「彼が躁鬱状態にあった」ということぐらいでしょうが、だとすれば最後の場面は「かっこいい」というより「目つきおかしく甲高く不気味に笑い続ける」方が実際に近い状態であっただろうと思います。

 「神」のために「死ね」と言われた、その「神」の生誕を祝う日であったかつての祝日に

 (2014年4月29日)