あたまのなか研究室

ピクルス(2代目)とぶらいあん(初代)の研究室です。

「SNSと映画館」(5)「島宇宙化」と「多様性」

 「SNSと映画館」5回目です。いよいよ140文字の制約を離れて書くことになってしまいました。制約があった方がやりやすいんだけど、と思ったりもしますがそんなことを言っている場合でもないので、いさぎよく始めることにします。

 ハッシュタグ「#SNSと映画館」の最初の頃に「島宇宙化」という話がありました。大雑把に言えば「趣味が島宇宙化していることが問題だ。これをSNSを使うことで何とかできないか」というような話だったと思います。(違っていたらごめんなさい)

 映画を観るという趣味は島宇宙化しているか、というか、これがなかなか微妙なところで、しているところもあるししていないところもある。確実に言えることは、「音楽や本という趣味に比べると、映画の島宇宙化はもっとも遅れている」ということでしょう。

 例えば「いま、新作で誰でも知っている本」というのは「ない」と思います。音楽に関してもそうです。しかし映画に関しては、かろうじてですが、話題になっている新作というものがあります。「永遠の数字」とか「名探偵対怪盗」とか「重力が重い」とか、映画にそんなに詳しくない人でも知っている可能性があります。それは新作が登場する分量のせいでもあります。新しく出版される本(小説に限っても構いませんが)やアルバムをすべて読んだり買ったりすることは物理的に不可能ですが、映画に関しては「ものすごくがんばったら全部観れないこともない」。まあ実際には限りなく0に近いですが、そんな人が新聞とかに取り上げられたこともありましたから不可能とは言い切れない。現在年間に公開される映画は洋邦あわせて800〜1000本くらいでしょうから、猛者でなくても「全部は観れなくても、タイトルや概要くらいはだいたい知っている」という映画ファンはそんなに珍しくないでしょう。本や音楽ではジャンルに壁が高すぎて、それすら困難(というか誰もそんなことをしようと思わない)なのが実情でしょう。

 これは「みんなが知ってるベストセラー」や「みんなが知ってるベストヒット曲」が実質的になくなったのに対して、映画はまだなんとかそれが残っているからですが、それもあくまで氷山の一角です。
 シネコンを頂点とする映画の認知度のヒエラルキーにおいては、下にいくに従って種類や量が増加し、詳しい映画ファンにしか段々とわからない状況になります。つまり音楽や本というのは、ヒエラルキーはあるけど、頂点がポキッと折れた、もしくは水没して見えなくなった状態だと言えると思います。

 で、シネコン的映画が認知度が高いのは、単純に宣伝費用に比例している訳ですが、ミニシアターそれも独立系になると、まるで宣伝費用が下がってしまいます。
 だから、シネコン映画館やシネコンでかかる映画については、SNSの活用について考える対象とするには(私個人としては)今はいいだろうというか、優先度としては低いと思っています。
 しかしミニシアターにとってはSNSをどう活用するかは死活問題になりかねないと思います。前回も書きましたが、「SNSを導入して劇的効果は望めないことはわかっているが、かといってやめればもっとひどいことになる」ので、やめるにやめられないというのが実情です。

 だからといってミニシアターにとってシネコンは天敵か、といえば、必ずしもそうとは言えません。一般的に「シネコンがミニシアターの客を奪う」と言われ、実際それが原因で閉館するミニシアターがあるのも事実です。ですが、「シネコンで育った映画好きがミニシアターで熱心な映画ファンとなる」という流れも否定できないからです。正確に言えば、シネコンで育った人がみんなミニシアターに行く訳ではなく、ミニシアターに行く熱心な映画ファンも最初はシネコンで映画を観ていた、ということです。
 では、どうすれば、シネコンにいる「潜在的映画ファン」をミニシアターに誘導し、立派な映画ファンとすることができるのか。

 ここで「映画の多様性」にまつわる諸問題が浮き上がってきます。映画には様々な種類の、様々な国や地域の、様々な観点から描かれた多様な作品があります。これは「音楽や本」などの「ジャンルによる島宇宙化」とは少し違うように思います。
 例えば「この作家の本しか読まない」「このアーティストの音楽しか聴かない」という人はいくらでもいると思いますが「この監督の映画しか観ない」「この俳優の出ている映画しか観ない」という人は非常に少数でしょう。また、「日本のミステリ作家しか読まない」とか「ヒップホップしか聴かない」というように、音楽や本は「ジャンルの壁」が非常に高いのですが、映画の場合は「ゾンビ映画とかホラーしか観ない」「ハリウッドアクションしか観ない」といったもはあるものの、「洋画しか観ない(それでも範囲はかなり広いんですが)」とか「◯◯映画以外なら観る」とか、ジャンルの壁はあるが、まだ比較的には低いように思われます。

 映画ファンにおいては、最初の時期(「何を観ても面白い」)があると思いますが、映画ファンがもっとも好きなのは「自分が観たこともない種類の映画を観ること」です。それは映画のジャンルというよりも「映画に多様な価値観(または視点)が反映されやすい」からだろうと思います。

 「映画に新たな価値観(視点)を発見すること」(それは自分にとって正しいとか間違っているとかとは別の次元のことです)は映画ファンの喜びですが、困ったことに「映画が多様であるほど、遠くの人間(たまにしか映画を観ない人)にとっては何だかよくわからなくて敬遠する」ことになりがちです。よく「これってジャンルで言うと何?」と「すでにその映画を観終えた」にも関わらずそういう疑問が出ることがあるのは「新たな価値観を消化する準備ができていない」からだと考えられます。(もっとも極端な例は「で、結局、どっちがいいモンで、どっちがわるモン?」)

 そこです。重要なのは「新たな価値観を消化する準備」なのです。
 熱心になるほどに映画ファンは「その準備」が自然に出来てきます。初心者ほど「準備」が出来にくい。それは「経験がないから」です。正確に言うならば、熱心な映画ファンは「かつて経験したことのない経験をすることに慣れている」が、初心者は「かつて経験したことのない経験をすることに慣れていない」のです。「経験したことのない映画を観る」という同じことをするにも関わらず。その差は「準備」だけです。

 では、「新たな価値観を消化する準備」が出来ていない映画好きが「準備」できるようになるためにはどうすればよいのか。
 かつてなら、仲の良い映画に詳しい友達(メンターですね)に、半ばムリヤリ「この映画面白いから」と言って引きずり回されているうちに、最初は「何が何だかわからないけどこれはすごいかもしれない」「いや何だかこれはすごい」「これは一体どうしてすごいんだろう」「もう一回観よう」「これはこういうことかもしれない」「いやいややっぱり今はよくわからないけどとにかく面白いことはわかったからいいか・・」と展開していきます。
 さて、現在、実際にそういう「ちょっとウザいけど、後になってわかるとてもありがたい友達」は近くになかなか見つけることは非常に限定的であるでしょう。趣味の多様化、というより、熱心な映画ファンが減ってきているのではないか、と想像しますが、それはまた別の機会に考えたいと思います。
 で、いま目の前にあるのは、SNSです。あなたがいまそうであるように、スマートフォンだかパソコンだかでこれを読んでいるように、あなたはSNSを使っていることでしょう。これを使わない手はない。

 仮にあなたが熱心な映画ファンだとしましょう。今までに観たことのない種類のちょっと変わった映画を観たとします。そこでSNSで発信するときに「ちょっと変わった映画だったけど面白かったよ〜。ぜひ観てみてね!」と書いたとします。それを読んだ初心者の映画好きは何と思うでしょうか。「ふーん・・。変わってるのか。よくわからんなー」であり、「面白いと書いているから面白いんだろうけど、他にも面白と書かれている映画は多いしな・・」でしょう。

 ここで必要なのは「何がどう変わっているかを具体的に説明すること」ではありません。それをすると、ほとんどの場合、あらすじを追いかけてしまうことになりがちだからです。最初の設定が「変わっている」話ならそれでも構わないでしょう。しかし「価値観や視点が変わっている」ことはそれでは説明できない。チラシとか予告篇とかで使われているキャッチフレーズをそのまま使うという手もありますが、それは情報としては伝わるものの、相手の心をほんの少しであっても揺さぶらせることは難しい。「自分にとって出会ったこともない価値観」というのはあなたにとってはささやかながらも「衝撃的」なはずです。それを誰かに伝えるのに「あらかじめ用意された宣伝文句」を書くだけでは伝わることは難しいでしょう。あなたの衝撃を伝えるには「あなたから出た言葉」が最も必要とされるからです。

 だからその言葉というのは、例えば「最初は◯◯な感じだと思っていたら全然違っていてびっくりした。これは△△の話だった。△△が実は××だなんて、今まで全然知らなかった・・」とか「何も考えずに観に行ったら、◯◯◯が△△△していて唖然とした。実は×××の歴史は〜〜〜だったなんて始めて知りました。なんというか、今うまく説明できません」というようなことです。これは「映画評を書く」とか「映画を薦める文章を書く」とかではなく「自分が受けた価値観の揺さぶりについて書く」ということです。自分の内部からまとまりなく出て来た言葉というのは、美文でもなければ整合性もないのかもしれませんが、「体験者だけがわかる差し迫った感覚」だけは「お決まりの推薦文句」より遥かに大きい。だから読み手も「何だかよくわからないけど、これはすごいらしいぞ」というのが、非常に小さな感覚として受け止められる。この「小さな感覚」というのが重要で、プロでもない一人の人間が書く文章が伝える力というのはささやかなもの。だからこそ、一つの映画に対して多くの熱心な映画ファンが「自分が受けた価値観の揺さぶり」を書くことで「小さな感覚」が「大きな感覚」として読み手に伝わってくる。どんな表現であれ、どんな乱文であれ、ある映画に対して、自分の内部から出た言葉が多く集積すると、それはひとつの大きな、ドロドロした熱い感覚として迫って来るだろうと思います。そして、それが初心者の映画好きにひっかかりを与えたとき、初心者を「何だかよくわからないけど、この映画、ちょっと観に行ってみるか・・」という行動(「背中を押す」)につながるのではないか。そんな風に私は考えています。

 長くなってしまってすみません。今日のところはこういう結論になりました。
 この稿について、ご意見、ご指摘などありましたら、よろしくお願い致します。

 「SNSと映画館」については、まだまだ考え続けたいと思います。

 (2014年1月12日)