あたまのなか研究室

ピクルス(2代目)とぶらいあん(初代)の研究室です。

『ゼロ・ダーク・サーティ』が、アカデミー賞を逃した理由

 キャスリン・ビグロー監督作『ゼロ・ダーク・サーティ』について書く。

 しかしその前に前作『ハート・ロッカー』について書かないといけないだろう。

 『ハート・ロッカー』は、「リアルにイラク戦争を描いた戦争アクション、社会派ドラマ」というのが一般的な認識のようである。
 しかしながらこの映画は、アカデミー賞を競った『アバター』にも負けないほどの「ファンタジー映画」であった。

 それはなぜか。

 『ハート・ロッカー』は、イラク人を「人間」としてきちんと描いていない。そもそも、アメリカ側の視点でのみ描いているので、イラク人が主要な役で登場しない。
 さらに重要なことには、この映画では、イラク戦争における「アメリカに都合の悪いこと」が注意深く排除されている。

 イラクにおいては、民間人(軍人ではない)が120万人以上殺害されていると言われている。多くは「誤爆」と言われるものである。また、ブライアン・デ・パルマ監督作『リダクテッド』に描かれているように「目に見えない恐怖から」怪しいと感じたイラク人を「正当防衛」として簡単に殺害しているケースも多いとみられる。

 それらの事実をまるで「なかったかのように描かないことで」この映画は「戦地で地雷撤去を勇敢に行うヒーロー映画」となっている。
 敵が「地雷」というのがミソである。敵が「イラク人」でないので虐殺を描く必要がないからである。
 またスーパーヒーローだとまるでリアリティーに欠けるので、主人公は家庭が崩壊しているという設定を付け加えている。
 なかなか巧妙である。

 要するに『ハート・ロッカー』は、アメリカ人がみたかった「イラク戦争」の異世界ファンタジー映画なのである。
 そして普通のファンタジー映画と違うもっとも厄介な点は「ファンタジーであることに無自覚なファンタジー映画」であることだ。
 これを「リアルな戦争映画」「人間をリアルに描いた社会派ドラマだ」と思っている人間がいる限り、この厄介な映画は「こうだったらいいな、イラク戦争」から「こうなんだよ、イラク戦争」と「願望から思い込みへ」と誘導する「国策映画」の立ち位置を免れることはできないだろう。


 さて、『ゼロ・ダーク・サーティ』である。

 これまた厄介な映画である。
 一般的には「ビン・ラディン殺害までのCIAを、女性調査官を中心にリアルに描いた社会派サスペンス・アクション映画」というものだろう。
 この映画の日本における宣伝においては「ビン・ラディン殺害の真実」と謳われている。
 しかしながら、この映画は別段「アメリカ政府及びCIA全面協力のもとに制作された」訳ではなさそうである。
 単に「断片的に開示されている情報をもとに」それっぽく作ったというのが実際のところだろう。
 しかしこれを百歩譲って「限りなく事実に近い内容」であるとしよう。「ドキュメンタリーに近い再現ドラマ」であるとしてみよう。
 すると、焦点になるのは「この映画で描かれている内容に対して作り手側は「肯定」しているのか「批判」しているか、ということである。

 例えば『ハート・ロッカー』は明らかに肯定しているし、『リダクテッド』は明らかに批判している。
 基本的にドキュメンタリーや社会派に近づくほど「批判」になっていく傾向が強い。
 この映画はどうだろうか。

 その前に、この映画で描かれていることの問題点を挙げてみることにしよう。

 1「主人公は、拷問を肯定している」
  →「情報を得るためにはやむなし」という言い訳によって冒頭から盛大に拷問を行っている。拷問をやめるのは「それが間違ったことだと気づいたから」ではなく「マスメディアがうるさいから」である。主人公は拷問場面において、苦しそうに立ち会うように描かれているが、これは観客が主人公に感情移入しやすいための「演出」だろう。他のCIAの男たちは全く慣れたものだし、最初にとまどいがあるにしても、男勝りで「冷血」と呼ばれる主人公がここだけ「普通の女性」っぽく描かれるのは不自然である。

 2「主人公は、ビン・ラディンを容疑者でなく犯人として扱っている」
  →アルカイーダは「9.11テロ」というエポックメイキングな事件を起こしていながら、いつものように誇らしげに「犯行声明」を出して自慢することを行っていない。まったく否定している。そもそも拷問で得た「証拠」以外に決定的な証拠がある訳ではない。それならば普通容疑者であるというべきところを犯人としている。これは「とにかく誰か犯人ということにしておかないとおさまりがつかない」からなのだろう。

 3「主人公は、ビン・ラディンを逮捕し事件の全容を解明することをせず、発見即殺害することを自明のこととしている」
  →当然ながら国際的な犯罪は国際法廷で裁くべきものである。事件の全容を解明することは、歴史にとっても、遺族や関係者ににとっても必要不可欠なことだろう。解明後に刑の執行を行ったとしても少しも遅くはない。これでは単に「原始人による勢いだけの復讐」と何ら変わらない。むしろ「全容解明されては誰かが困る」からなのではと思わざるを得ない。

 4「主人公は、明確な証拠もなしに、推測だけで、ビン・ラディンおよび関係者の殺害を指示する」
  →終盤に描かれるのはカナリア部隊による「集団強盗殺人」である。こういうことが間違った相手に行われていたことは、劇中にて主人公の上司たちが一同に登場する唯一の場面である「重要決定会議」における「確率◯◯%」議論をみれば明白だろう。
 
 5「主人公は、ビン・ラディン殺害のためには、怪しい場所には爆弾をどんどん落とすべきと考えている」
  →劇中に「てっとりばやく爆弾を落としたかったけど上司に却下されたので、カナリア部隊を送る」というセリフがある。
 これはパキスタンであったためにできなかっただけで、過去アフガニスタンイラクでは「てっとりばやく」爆弾を「じゃんじゃん」落としていたということだ。前項とあわせて、誤爆による民間人死者があれだけ多い理由がここにある。

 6「主人公は、ビン・ラディン殺害それ自体を「自分の欲望を満たすため」に行おうとする」
  →劇中主人公が、カナリア部隊に対して「私のためにビン・ラディンを殺して!」と叫ぶシーンがある。これはアメリカ映画などでよくある「ハッパをかける」場面であるともとれるが、言われたカナリア部隊は白けた反応である。また、冒頭の拷問場面をのぞくとほとんど感情を抑制しているかのようにみえる主人公が、ここだけ感情的になるのは「自分の目的まであと一歩」というところで、もう一押ししたいという気持ちがあふれた、とみるべきだろう。そこに「ビン・ラディンを殺害することの意味」に対する問いかけは、ない。


 最後の場面、帰還する軍用機の中でひとり涙する主人公。果たしてこの涙は何の涙なのか。
 「どんな悪人であろうと、人を殺したという事実が、最後に重しとなって襲ってきたから」なのか。
 「長期間高ぶっていた感情を押さえつけていた感情が、一気に解放されたから」か。
 「目的のために非人間的になっていた自分から素の自分に戻ったときに気づいた悲しみ」なのか。

 涙の理由をこの映画は明確にしない。そしてこの主人公やCIAに対する「賛同」も「批判」も、この映画は明らかにしない。
 それは「客観的に、距離をおいた描き方」と言えば聞こえがいいが、おそらくは、明確にすることで非難されることを恐れているからだろう。

 本作はアカデミー賞有力候補と言われながら、音響編集賞を『スカイフォール』と共同で受賞するのみという結果に終わった。
 主要2部門(作品、監督賞)をふくむ6部門を受賞した『ハート・ロッカー』とは対照的な結果である。
 そこに理由があるとすれば、それは作品内容に対する作り手のスタンスが明確であった『ハート・ロッカー』に対して、『ゼロ・ダーク・サーティ』は、内容に対するスタンスを曖昧にした「すっきりしない」ところにある。アカデミー賞はもっとわかりやすい作品を好むだろうからである。

 実際のところは、この映画の主人公は監督自身の投影ではないか、と思っている。
 もちろんそれは、この主人公に対する肯定であり、賛同ということである。

 この映画は、冒頭に「この映画は関係者の証言による物語である」という旨のキャプションが表示される。
 しかし正確に言うならば「この映画は関係者の、多くは拷問を用いた証言による物語である」とするべきだろう。

 この映画の「気持ち悪さ」は、拷問や殺害指令といった、描かれていることそのものよりも、それを無表情に見つめる作り手の「あいまいなスタンス」にもっとも強く現れているように思う。

 (2013年2月28日)