あたまのなか研究室

ピクルス(2代目)とぶらいあん(初代)の研究室です。

『恋するミナミ』ファースト・インプレッション

 今年の大阪アジアン映画祭で、自分にとってはクライマックスに相当する映画、リム・カーワイ監督の新作『Fly Me to Minami〜恋するミナミ』(ワールドプレミアバージョン)を観ることができたので、それについて少し。

 一言でいうと、前作『新世界の夜明け』の物語構造をより複雑化した上で、コメディ色を薄めた分洗練度を高めた「お洒落なミナミ観光映画」となっている。前作は「日本の外側からみた日中関係」を、主にコミカルに描くことを主題としていたが、今回は「日本の外側からみた日中韓関係」を、お洒落な恋模様を用いて描くことを主題としているようである。

 「国籍は関係ない」と語る(ことにこれほど説得力のある人は他にいない)リム監督は、この映画においてある登場人物に、自分が買い付けた服をみながらこんな風なセリフを言わせている。

 「(タグを取ってしまえば)日本も韓国もぜんぶ中国製なのよ」

 これは要するに「日本も韓国も中国も本質的には同じである」ということを示唆する表現で、この映画における重要なテーゼであると思われる。

 少なくとも登場人物たちは外国の人間に対して特に偏見なく一個人として接しているし、言葉も文化も違うのにも関わらずそれを乗り越えようとすることを厭わない。
 前作では、外国人に偏見を持った父親や中国(毛沢東)を偏愛するおじさん(偏愛もまた偏見の一形態)が登場したが、今回は特にそういう人物は登場しない。実際に存在するそういう存在をあえて出さなかったのはいくつか理由があるのだろう。

 ひとつは「関係する登場人物が多いため、そこまで描く余裕がなかった」と思われること。そして「前作で描いているので再び描く必然性が強くは存在しないと判断した」と思われること。そしてもうひとつは(これが一番重要なのだが)「こうであって欲しい、という製作者たちの思い」があっただろうということ。これは領土問題で関係が悪化している(とされる)現在の状況においてこの映画を制作した人々の強く願っているところではないかと思うのだ。

 恋愛は必ずしもうまくいくとは限らないが、それでも、国籍や言語や文化を超えて「人を好きになる」という感覚が自然に培われてことによって「国による対立」という(本質的には直接個人には関わりがないはずの政治的問題を市民へ投影したことによる)不毛な確執は薄まっていくだろうし、実際にそうなって欲しい。

 この映画はそんな風に語っているように思えて仕方がない。

 しかしそんな事情はおいておくとしても、純粋にミナミを舞台としたアジアンテイスト満載の恋愛映画として面白い。笑いのツボも押さえている、文句なしにおすすめの作品です。

 (2013年3月16日)