あたまのなか研究室

ピクルス(2代目)とぶらいあん(初代)の研究室です。

「不安」と「反不安」の構図『おだやかな日常』

 シネ・ヌーヴォで『おだやかな日常』を観ました。

 人は「何だかよくわからないもの」を目の当たりにすると不安になります。そして不安が続くとストレスになります。
 一般的に、人は「不安であると表明すること」でストレスの軽減を図りますが、一方で「不安であると表明しないこと」で不安を抑圧するという心的機制もあります。これは表面上の不安を軽減する分、意識下での抑圧によるストレスが強まるため「何だかよくわからないけどイライラする」ということになります。

 不安が過剰になるとニューロティックになりますが、この場合、「不安だからニューロティックになった」のではありません。「不安だ!」という人は、不安であることよりも、「不安じゃない!不安っていうから不安になるんだ。不安って言うな!」という言わば「反不安」と呼ぶべき人の攻撃的ストレス発散にさらされることによるストレスの方が大きい。

 この映画は「不安の人」と「反不安の人」の対立を描いていますが、おわかりのように、どちらも不安であることに変わりはありません。むしろ「反不安の人」の方が無自覚な分、不安の揺れ幅の度合いも大きいだろうと思います。

 この国において「不安の人」より「反不安の人」が多いのは、「大きな存在に弱い」「誰かの大きな声に弱い」日本人における同調圧力によるところが大きいように思います。同調圧力というのは、例えば「日本人は震災の時でも混乱せずに整然と並んでいた」という話は一見美談でありながら、同調圧力の裏表です。また見方によれば「軍隊式学校教育による無意識の整列志向」が骨の髄まで染み付いているとも言えます。ロボットに近いということです。

 ロボットに近い人は他者からみると扱いやすくて便利ですから賞賛されがちですが、その分自律的でありえないことがストレスの原因となります。過労死が多い、自殺が多い、孤立死が多い、ということは直接的には不況によるところが大きいと言われますが、このこととも無関係ではないでしょう。

 以下は余談です。

 この映画を観ることはなかなか辛いのですが、「震災時の思い」「人間関係の対立」以外にも「登場する男性の情けなさ」は、観ていていたたまれなくなります。この映画で描かれる男性像が情けなさすぎる、のではなく、これが現実の反映だからです。
 男の問題はいろいろあります。「根拠なき楽天性」「問題意識の極端な低さ」「目先志向」といったようなことです。

 書いていてまた溜息が出て来ました。いったい何でこうなったのか、それは明白です。「男性という甘やかされた立場にあぐらをかいてきたから」です。もちろんちゃんとした方も多いと思いますが、全体からいうと誤差の範囲ぐらいでしょう。
 自分も男性としてこの問題から避けて通ることはできず、心苦しい限りです。

 (2012年12月24日)