あたまのなか研究室

ピクルス(2代目)とぶらいあん(初代)の研究室です。

予告篇が観客を殺す

 今回は「予告篇が映画を殺す」(http://d.hatena.ne.jp/communicationbrakedown/edit?date=20141106)の「続篇」です。

 2014年11月なので足掛け3年がかりになってしまいましたが・・。上記を再読の上下記をご覧頂ければ幸いです。


 前にも書きましたが、予告篇は映画はでなく宣伝映像であり、本篇を作った監督や製作者とは別物です。予告篇が映画本来の意図を誤読したり、本篇がつまらないので予告篇を面白くしたり、あえて本篇の面白さとは別の部分を強調したり、というのは商業映画である以上完全に避けることは出来ないでしょう。

 「全部を説明してしまう予告篇」ばかりになって「どんな話かわかって安心して映画を観る」ことばかり続けていると、一般的観客の「観る映画の幅」は広がっていかないでしょう。「一見面白そうな、そして実際そこそこ面白い映画」ばかり受け「人によって面白いかつまらないか別れる」映画は淘汰される。

 「そこそこ面白い映画」ばかり増えて、毀誉褒貶のある映画が減ることは、映画を作る側も不幸ですが、最も不幸なのは「自分で映画を選んでいるようで、意図された予告篇に誘導され、選ばされている」観客です。同じような作品ばかり観て世界を拡げることができないのは「観客殺し」でもあると思います。

 (2014年11月10日、Twitterにて発表)

 理想的な予告篇というのは「何だかよくわからないけど、面白そう」だと思います。ナレーションや文字による説明が過剰になると「映画そのもの」を映画以外の「外からの言葉」によって、極端に言えば作品改変、少なくとも先入観を植え付けることによる「映画そのものが持つ意図」を妨害する恐れがある。

 そういう意味で、理想的な予告篇とは具体的にどんなものかというと、例えば、次に挙げる予告篇。劇中の映像とセリフ、音楽、のみ。ナレーションなし。文字による説明なし。「映画の外側からの言葉」などによって映画本篇を汚すことを最小限にしつつ、説明言語がないのに(ないが故に)胸に迫ってくる。

 『ゴーン・ガール』(最初の予告篇)※劇場鑑賞推奨
https://www.youtube.com/watch?v=aq8X4FUMvKo
注意して頂きたいのは、この予告篇が素晴らしいからといってこの後発表された予告篇が同様に素晴らしい訳ではないということ。そしていくら予告篇が素晴らしくても本篇がそうだとは限らないこと。

 (2014年11月12日、Twitterにて発表)