あたまのなか研究室

ピクルス(2代目)とぶらいあん(初代)の研究室です。

ピクルス的史上最低の映画について

 あまり映画についてネガティヴなことは書きたくないと日頃思ってはいるのですが、やっぱり言うべきところは言っておかないとだめなんじゃないかと思ったりもするので、ずいぶん経ってしまいましたが、記録としてここに書いておくことにしました。
 しばらくはその映画の題名を出すこと自体が宣伝となってしまい逆効果であり、黙殺すべきかとも思いましたが、何が問題でどういう話かとちゃんと書いておけば良いのでは、と思い直しました。

 まず最初に「最低映画」と書きましたが、何をもって最低とするかは各人いろいろあると思いますので、あくまで私個人の思うところの、そして現時点での「最低映画」ということをお断りしておきます。
 そして「映画の質的な作りとして最低」ではなく「だからこそやっかいなこと」だなと今は思っています。なぜならは今回俎上にあげるのは「宗教的プロパガンダ映画」であり、「他人に言われたことを鵜呑みにしてしまう」ような人にとっては一種の「洗脳」にも値すると考えるからです。

 この映画を観たのは今年の年末年始にかけての正月映画に相当する時期だったと思います。題名は『神は死んだのか』。
 熱心な映画好きにとっては、観ていなくてもタイトルや予告篇をご記憶の方もおられることでしょう。
 「神が存在するかどうかを論争する映画」という内容自体は、神学的には全く明るくありませんが、学術的にスリリングなものを感じました。
 しかしその映画を観る当日になって、この映画の原題が"God is not Dead"(神は死んでない)であることに気づき嫌な予感がしました。
 
 物語を簡単に説明するとこうです。敬虔なカトリック教徒(らしい)主人公の大学生が「無神論者の教授」の講義を取りますが、1回目の講義で教授が「学問上の偉人たちの名前を黒板一杯に書き出し、彼(女)らがことごとく無神論者であることを示し」たあと、授業の最後に受講者全員に「God is Dead」と書くように命じます。主人公だけが書けずにいると、教授に難癖をつけられて、軽い口論のあと、教授に「これから3回の講義に渡って20分(※分数はうろ覚えです)を与えるので、「神が死んではいないこと」を証明せよ、受講生の半数以上が認めたならば、君の主張を認めよう」というようなことを言って(勝つ気満々で)主人公に挑戦させます。

 で、主人公は、どうやったら勝てるのか悩んだり、ガールフレンドに離れていかれたりして、苦労します。あとで教授に「今のうちに止めろ」と恫喝まがいのことも言わたりしますが、教授の弱点をつかんだ彼は3回目の発表で教授を言い負かすことに成功します。
 普通ならネタバレになるので書かないか、注意するところですが、今回は重要なところなので、はっきり書きます。

 教授の弱点というのは「昔は神を信じていたが、神に祈ったのにも関わらず最愛の母が亡くなってしまったので神を憎むようになった」ことでした。主人公は教授にこう言って絶句させます。「存在しない相手を憎むことができるのですか?」
 そこで、「神は死んでない」という主人公の意見に賛成するかを問うたところ、(手垢のついた映画的表現ですが)じれったくひとり立ち上がると、次々に受講生が立ち上がり、最後には(たぶん)全員が立ち上がります。

 ここがクライマックスなのですが、ここからの展開がすごいです。
 このメインストーリーが描かれるなかでサイドストーリーとして、いくつかのエピソードが描かれるのですが、最も大きいのは、ある(おそらく実在する)宗教的ソングを主に歌うヴォーカルグループの存在です。最後に彼らのライブ会場が登場するのですがこれが真のクライマックスになります。

 これとは別に、リッチな彼氏に振られたジャーナリストの女性のエピソードが出てくるのですが、彼女はがんが発覚し絶望の境地に陥るのですが、最後にこのヴォーカルグループのライブコンサートで楽屋に招かれることで(たぶん宗教的な意味で)救われます。

 そして主人公や彼を支えてくれた(会ったこともない人を含めた)友人たちと、なぜか皆がライブ会場で一同に会します。
 (実際キリスト教系のシンガーやパンクバンドなどが多いアメリカでは小さな街でライブをするとその手の人たちが顔を会わす、というのはよくあることなのかもしれません)
 そこでグループのメンバーが観客に呼びかけます。「ひとりが100人に「神は死んでない」とメールを送ろう!(会場には)1万人いるから、全員が送れば100万人に伝わる!」
 そして当然のように興奮した観客はメールを送りまくります。世界中に。

 あと忘れてはいけないエピソードがあります。このライブの描写と並行して、本作の最大の「悪役」である教授が、主人公に敗北したあとに(実は敬虔なカトリックだったのにないがしろにされた)妻に離縁されます。
 そして教授はふらふらになって(たぶん酔っ払っていたと思いますが)問題のライブ会場の前で「不運にも」車に轢かれて瀕死の状態になります。

 そこにこれまたサブエピソードで描かれていた人の良いカトリック教徒の男たち(黒人と白人のコンビだったような気がします)が、瀕死の状態の教授に「たまたま」居合わせて「(苦しまないように)神に祈りなさい」そして「神は死んでない、と言いなさい」とやさしく強要します。死にかけで何が何だかわからなくなった教授は「神は・・死んでない」と言って息を引き取ります。

 そしてライブ会場はメール送って大興奮状態になる描写になるのですが、最後にみんなで手をつないで両手をあげてバンザーイ、みんなハッピーみたいな感じでこの映画が終わります。

 そしてエンドクレジットなのですが、その前に「この映画は、実際の大学であった事件に着想を得て製作されました」(「事件を元に製作」だったかもしれません。ただし原文はinspireだったはず)と出ます。
 さらにエンドロールが終了したあと以下のような一文が出ます。英語と字幕で。

 「みなさんも100人にメールしましょう。神は死んでない!」

 いかがでしたでしょうか?「あまりの素晴らしさ」に感動しましたでしょうか?

 この映画のどこに問題があるのか、自分なりに考えてみます。

 ・「神が存在するかしないか」の神学的議論ではなく単なる勝ち負けを競うディベートである。主人公は神の存在を証明したのではなく、教授の言動の矛盾を突いたにすぎない。それは神の存在とは異なる全く次元の低い「言い負かし」である。

 ・教授が「卑劣でイヤな人物」として描かれているのに対して、主人公はじめ「神の存在を信じる人々は全員が愛すべき好人物として描かれている」という露骨なキャラクター設定。

 ・「神の存在を信じない者には不幸が訪れる」と言わんばかりの教授の末路。

 ・瀕死の人間に「宗教的転向」を強要する描写。

 ・大観衆の興奮による宗教的示威行為の誘導。(描写だけでなくこの映画を観る観客へも)

 ・実在の事件を映画化したかのような表現。(これは推測ですが、単に信者の大学生が無神論者の教授を訴えたという事件があっただけで、こんな論争事件やましてやこんな教授が実在した訳ではないでしょう)

 ・娯楽映画に近いご都合主義な物語。(本当に単なる娯楽映画なら何の問題もなかったんですが)

 ・一見「キリスト教カトリック)」の宣伝映画に見えるが、実は「新興宗教」によるもの。
  そして、それが観客には明らかにされないこと。

 こんなところでしょうか。

 映画を観る前は少しはマシな宗教的議論があるのでは、と期待もあったのですが、あまりに極端で一方的な描き方に正直言って、観ていて気持ち悪くなってしまいました。

 「そんなにひどい映画ならみんな観ないだろうし、観てもあきれるだけだろうから、そんなにムキにならなくてもいいのでは」と思う方もおられるかと思いますが、実はそうでもないのです。この映画を観て泣いている人が結構いたんですね。親子連れもチラホラ見られたのも気になりました。

 東京では初日満席だったとも聞きます。果たして日本の敬虔なカトリックの方が大挙して来られたのか。
 (私は大阪で観ましたが、公開からしばらくたっていたのでそれほどでもありませんでした。ただしこの映画に人が入らないと言われる最近にしてはかなり入っていた方だとは思います)

 実は、あとで聞いた話ですが、この映画を製作したのは、米国のキリスト教系の新興宗教団体のようです。日本にも支部が多数あるので、そこから動員された可能性は高いだろうと思います。

 もうひとつ気になることがあります。米国では少なからず存在すると思われるこの手の映画ですが、一体これをなぜ今回日本で上映することができたのか、ということです。
 詳しく調べた訳ではないので断言はできませんが、少なくともこの映画を配給した会社はほとんど無名に近く今まで日本で配給した作品も2桁いくかどうか程度であることから、上記の団体との因果関係が考えられるでしょう。

 さらにもうひとつ。さすがにこんな映画をシネコンで扱うのは難しいのか、日本ではミニシアター(街の映画館含む)でのみ上映されているのですが、気づいた範囲のいくつかの劇場では、スマッシュヒットした英国映画『アバウト・タイム』が同じような時期に上映されているんですね。この映画って問題の配給会社の配給作品。つまり映画館としては単独では上映したいとは思わない作品でも「抱き合わせ」なら・・ということです。もちろんこれも何の確証もない推測にしかすぎません。

 書いていて本当に最後まで後味の悪さの残る映画でした。

 (2015年5月31日)