あたまのなか研究室

ピクルス(2代目)とぶらいあん(初代)の研究室です。

大阪ヨーロッパ映画祭『わたしの名はジン』

 第20回大阪ヨーロッパ映画祭にて上映された『わたしの名はジン』(レハ・エルデム監督)について、初上映から7日目にしてようやく書く。(映画祭での2回の上映が終り、当分の間日本では観る機会がないと思われるため)

 本作は、現在のところ、日本において、劇場公開はもちろんDVD化の予定もないようなので、以下は内容に踏み込んだ文章になることをお断りしておく。

 いつの日かこの映画を観たいと考えている方は、ネタバレがあることを充分に留意された上で読むか読まないかを判断して頂きたい。(一応ネタバレ警告ラインは設定している)

 さて、私が最初にこの映画を観たとき、(毎度のことながら)予備知識が全くない状態で臨んだのだが、ちょっとベタなタイトルから、ほとんど期待はしていなかったということは、ここに書いておかなければならない。

 ところが冒頭、自然の風景がゆっくりと何分も流れ、突然爆発音が激しく炸裂する(それまで無音に近い状態だったので実際の音より遥かに大きく感じたというのはもちろん製作者の意図通りに他ならない)ところから「これは普通の映画ではない」と直感した。

 そして、この映画が終わったとき、普段映画を観て泣くことがほとんどない私が、年甲斐もなく目から涙が出ることを止めることが出来なかったことをここに告白する。

 それは、この映画のラストの暗転で暗示される「主人公の悲しい運命」が「可哀想だと思った」から、ではない。

 この映画は私にとって「かつてない映画体験」だった、ということをまずここに書いておきたい。 

 この映画の特徴は「大自然を舞台にしたロードムービー」で、それは主人公が旅(逃走の旅)の途中で一期一会の様々な(でもささやかな)出会いがあるというところだ。道中常に不穏さを漂わせながらラストに突入する様子はロードムービーの名作『イージー・ライダー』を彷彿させる。

 しかしながら、道中で出会うのは人間だけではない。ほとんどは自然界であり動物をはじめとする生き物である。

 そしてもうひとつの特徴は、この映画は「人間以外の視点で描かれた戦争映画」であるということだ。

 これは「人間以外の存在=(人間を除いた)自然界」の視点で描かれている。

 空爆されるとき、銃撃されるとき、森で傷つくのは樹木であり動物であり、あらゆる生き物である。あらゆる生き物が「戦争によって」傷つけられ、脅かされている、という当たり前のことを、その生き物の「痛み」や「恐怖」とともに描いた映画、というのを私は今まで観たことがない。
 (※もしかすると単に私が観ていないだけの話かもしれないので、もしご存知の方がおられたら、ぜひともご一報頂きたい)

 自然界にとって、人間とは「戦争という、同じ人間同士を殺し合い、他の生物も無差別に殺戮する」極めて悪辣な存在である。
 例えば動物は、基本的に「自分が生きる為に必要な食べ物として他の生き物を殺す」だけだ。一部例外はあるにしても、同じ種類の生き物をおびただしい数にわたって殺戮するのは、人間だけである。

 自然界にとっては、そんな人間の愚かしさを苦々しく思っている。迷惑しているし、恐ろしいし、危機感を感じてもいるだろう。

 この物語は、主人公のクルド人少女ジンが「戦闘員であること」から逃れて都会に脱出しようとする話である。

 少数民族や女性に対する抑圧の物語でもある。

 しかしこれを別の視点からみると、「未来ある少女が、戦争という愚かしさから脱出する」物語とも読める。

 だから、この映画では自然界が静かにジンを見守っている。常に生き物たちが見守っている。

 動物はもちろん、木々や風もが彼女を見守っているように見える。(雇用者の男に強姦されかかった時の馬と木々と風を見よ)

 自然界は、この少女に未来を託して見守っているかのように見える。戦争をしない未来の可能性をジンに見ているのではないか、とも思える。

 だから、あのラストシーンなのである。

 <<注意:ここから完全にネタバレゾーン>>
 ジンが凶弾に倒れたとき、動物たちが集まっている幻想的なシーンは確かに鳥肌モノである。

 普通に考えれば、あれは「死を間際にした人間が見る幻覚」なのだろう。

 しかし、私には、どうしてもそういう風には見えなかった。

 あの場面は、動物たちをはじめ自然界があの行為を見て、冷ややかなまなざしで蔑みをもって佇んでいるように思える。「ああ、やっぱり人間はあらゆる生物の中でもっとも愚かな、救いようもない存在だった」と・・。

 そして私はここで強く感じたのである。「人間は愚かしさのあまり、自然界に見捨てられた」と。

 私の涙が止まらなかった理由はここにある。親に捨てられそうになった子供が「見捨てないで!!」と涙を流すように、私は泣いた。

 それほど、感情を深く揺さぶられたのである。

 人間は人間に非道なことをするが、人間は人間以外のあらゆる生き物には「非道なことをした」意識すらしていない。

 私はこの映画で描かれた「人間の愚かしさ」に、人間が害を及ぼしているすべての生命体に、可能なら謝ってまわりたいと思った。

 「何をバカなことを」と思うかもしれないが、この映画を観たとき、できるのであれば本当にそうしたいと思ったのである。

 <<注意:ここまででネタバレゾーン終了>>
 そういう心情になってしまうくらい、人間は本当に愚かであるということを、この映画は描いている。

 私はあれ以来、この映画のことを思い出す度に涙を流している。あの音楽が聴こえるだけで涙を止めることができなくなる。

 そして、未来を考える。

 この映画を観て「人間は愚かだ、と言いたいことはわかった。だから?」という感想には未来への展望が何もない。

 この映画を観て「人間は愚かだ、だから何かできることはないか。それをずっと考えていきたい」と思う人が多いほど、未来は開けていくことだろう。私はそう思ってやまない。


 <追記>

 2回目の上映のとき、急遽来日された撮影監督のフローラン・エリー氏がゲストでディスカッションに参加した。
 この映画は、トルコにおける長らく続くクルド人の問題(30年以上に渡る戦争)を、何とかしたいというところから製作した映画であるということだった。しかしこれはこの戦争だけではなく、あらゆる戦争についての普遍的な映画でもあるとも語った。

 <追記2>

 その後、私はフロラン・エリー氏を捕まえて、この映画について話を交わした。
 私は彼に「この映画は、自然界におけるロードムービーであると同時に、人間以外(自然界)の視点で描かれた映画であると感じた」と伝えた。そして「また、この映画は美しく残酷な寓話であるとも感じた」と言おうとする寸前に、彼はこう言ったのである。
 「この映画は、フェアリーテール(童話)だよ」と。
 思わず何度も聞き返すと、彼は「これは力強い童話だ。赤ずきんと同じだよ」と言ったのである。

 赤ずきん。言われてみれば確かにジンは赤ずきんちゃんのような佇まいの少女であった。「戦争という狼」に狙われる赤ずきん
 そして彼女は戦場にも関わらず、目立つ赤いスカーフを頭に巻いていた・・。

 (2013年11月24日)