あたまのなか研究室

ピクルス(2代目)とぶらいあん(初代)の研究室です。

字幕に「新訳・改訳」は必要か?

 「30年くらいまえの字幕は古すぎるので新しい字幕にすべきだ」というような意見を少し前にみかけたので、この件について考えてみる。

 確かにこの文章だけみればとてももっともらしい考えのように思える。

 これは「昔の字幕は当時の言語感覚で書かれているので、今の観客(視聴者)には理解しづらいだろうから」という考えが前提にある。おそらく自分自身そう感じたからこういう意見になっているのだろうと思われる。

 翻訳書で言えば、村上春樹氏は、「翻訳は50年くらいが耐用年数なので、新しい読者のために新訳にした方がよい」というような意見を述べている。

 これももっともな意見のように思える。

 しかしちょっと待ってほしい。洋画の字幕が30年なりで新訳にしないとだめならば、日本映画はどうなるのか?名作といわれる映画は30年、50年、いやもっと古いものもあるが、その理屈で言うならば、時代に即したセリフは、直す必要があるのではないか。
 別のセリフを入れ直せ、といっているのではないが、いまTVでお得意の「テロップ」で「現代語訳」を出せばよいのではないか。
 いまでもTVの番組で方言を標準語に変えてテロップに表示したり普通にしているのではないか。

 いやいや、日本の映画にしても小説にしても、当時の言葉を使うから趣があるんだよ、と思った方も多いと思う。
 そう、別に「現代語訳」などする必要はないし、実際いまでも昔の映画(無声映画ふくみ)は普通に当時のままで観られている。

 洋画や外国の小説の場合、翻訳(外国語→日本語)に変換する作業において、無意識に現代語訳まで行っている(古い外国語→今の日本語)ことが実は問題なのではないか。

 本来は外国語作品の発表当時の言葉で日本語訳するのがもっとも自然なはずなのに、意識するしないに関わらず(おそらくあえてだとは思うが)常に「最新の日本語」で表現しないではいられない、という感覚が奇妙に思えるのは、日本語ならそのままなのに、外国語なら常に現代語訳せねばならない、というアンバランスさのせいである。

 そして、それは「翻訳」という過程に安易に混入されてしまうので、「外国語翻訳と日本語現代語訳」はセットになっているふしがある。

 実際のところ、翻訳者は「発表当時の日本語の言語感覚を入念に調べて翻訳する」より「いま自分が使っている日本語表現をそのまま使用して翻訳する」方が、はるかに簡単な作業である(ことが容易に想像がつく)からである。


 ここまで書いて、もうひとつ一般的に誤解をされがちなことについて書いておく。

 例えば「言葉は50年で古びる」と仮に仮定したとして、例えば2013年と1963年、2003年と1953年では古び方は全く異なる、ということである。

 例えば口語の場合、50年前の日本映画のセリフを我々は「今では使われなくなった言葉」「当時一時的に流行った言い回し」(の中の一部)を除いて、ほとんど理解することができる。100年前の標準語でも(残念ながら当時は無声映画しかないが)聞けば、ほとんどは理解することができるだろう。それほどに、基本的には日本語は変わっていない。

 一般的に言語は、年数に従って緩やかに変化を遂げる訳ではない。ほとんどの場合は政治によって短期間に大きく変化する。
 日本の場合、明治に入って「国語」が「作られた」際に、文語や外来語などの新造語があまりに大量に入ってきたため、おそらく1870年代以降の数十年の間に口語は急激に変化した(それまでの言葉に加わる形で新しい語彙や言い回しが増えた)と思われる。
 そして、それ以降は「新語」や「流行(はやり)言葉」をのぞいてそれほど大きくは変化していない。

 文語については事情がちょっと異なる。戦後に国語について大幅な改定(漢字の簡易化、新仮名遣い)があったために、同じ言葉でありながら、文字にするとある時期に変化してしまったのである。

 この影響はあとの時代になって現れた。つまり、戦後のある時期以降の国語教育を受けた人間は、その前の時代の文語(簡易化前の漢字、旧仮名遣い)が読む事が非常に困難になった結果、ある時期をもって日本語の著書は(研究者など一部をのぞいては)現代から切り離されてしまったのである。

 この「漢字の簡易化、新かなづかい」が一般に定着したのは1960年代のはじめ頃(※1)だと思われるが、それが今からだいたい50年前であり、村上春樹新訳50年説と一致するのは偶然ではないだろう。

 つまり1960年以前の翻訳書は「漢字の簡易化、新仮名遣い」が徹底されていない(または全く使われていない)ためにあわせて「改訳・新訳」が必要だということである。(※2)

 文語については以上のような経緯があった。

 では口語についてはどうだろうか。

 前述したように口語については「流行言葉・言い回し」「廃れた言葉(廃語)」をのぞいては基本的にはここ100年ほど大きな変化はない。
 映画字幕においては「新漢字体、新仮名遣い」が定着する以前の語法でも慣れればそれほど難しいものではない。
 (50年代の洋画の多くでは、まだ「旧漢字体、旧仮名遣い」の一部名残りがある字幕があるが、さほど違和感はない)

 よって1960年以降の字幕や翻訳文は、新しい現代語訳という意味において、あえてお金をかけて新訳にする必要はないと思う。

 ただし既訳があまりに悪訳であるとか当時としても古臭い訳であるとかいうのであれば、必要性を否定はしない。

 もっとも「翻訳者の仕事が増えるから」という(あまり大きな声では言えない)理由だけでどんどん新しくするのであれば、それはちょっとどうかとは思う。

 翻訳書の場合、新訳を買うのは読者の選択なので問題はないが、字幕の場合、観客には選択権がないのでそれが有無を言わさず費用に加算されることを誰も拒絶できないからである。(もっとも映画鑑賞料金は基本的に一律なのでその費用がどこから捻出されているのかは不明瞭なのであるが、間接的に消費者に影響しているのはずである。が、これはまた別の問題)

 (※1)厳密に調査した訳ではないが、現在でも入手可能な1950年代前後の「岩波文庫・新書」や「ハヤカワポケットミステリ」を見た限りではそう思われる。
 (※2)もっとも村上氏は単純に、年々と入れ替わる「流行言葉」や「廃語」を意識して「50年」としたという可能性も充分にある。ここでは「読める」ということより「読めるのは当然で、読みやすく」ということだと思われる。
 翻訳書における近年の「新訳ブーム」は個人的には歓迎だが、「新訳が常態化すると、新しいことが新鮮に感じられない」という可能性によって「ブーム」はいつか沈静化してしまうのでは、と思っている。

 (2013年4月30日)