あたまのなか研究室

ピクルス(2代目)とぶらいあん(初代)の研究室です。

『高校生ブルース』にみる1970年の引き裂かれ方

 えっと、タイトルに書いた通りです。

 と言ってしまうと終わってしまうので、もうちょっとだけ書く事にする。

 『高校生ブルース』を観ると、冒頭のクレジット、音楽、セリフ回しと、まるで1960年頃の映画そのものであることに驚く。
 「たった10年」と思うかもしれないが、1960年代の10年(厳密には67〜69年)の劇的な若者文化の(見た目上の)変貌ぶりはスピードがあまりにも早すぎたため、大人が側がついていけていないのが実情だった。音楽はハードロックやサイケデリックロックが主流となり、映画は「ニューシネマ」や日本の新しい才能が台頭しはじめていた。
 そんなときに「1960年の大映ほのぼの恋愛ドラマ」はあまりにもズレていた。
 もちろん製作者としてはそんなことは承知の上で作ったのだろう。いきなり若者目線の映画をつくれるはずがないと。

 この映画は、「高校生のセックスの問題」を旧来の演出法を用いて描いた作品である。
 そして旧来の演出を用いたが故に効果的な場面がいくつかある。

 ひとつは主人公の女子高生が「ゴーゴークラブ」に行くシーン。
 優等生が、思いっきり濃いメイク(今の時代とリンクする)と大胆なファッションでクラブに行くのだが、そこではサイケデリックロック(といいたいところだが日本風なので「おサイケ」音楽)がガンガンにかかり、ヒッピールックの若者たちが踊り狂うのである。(クラスメートの一人は上半身裸で踊っている)
 ここは、おそらく当時の現実に近いものだろう。冒頭から延々「真面目な高校生たちの恋愛が少しずつ狂い始める」様子を旧来のほのぼのタッチで描いていたことに対して「現実を突きつけられる」ことで強いコントラストとなっている。

 もうひとつは、ウブでネンネな主人公の女子高生が妊娠問題を機に現実に立ち向かうときの鬼気迫る執念の姿である。
 同級生の彼氏に腹をけられまくり激しく身もだえる姿、この冒頭の無表情気味のウブな女子高生の姿とのコントラストたるや。

 結局、これは「男はいざとなると腰が引けるが、女はいざとなると気丈に立ち振る舞う」という、極めて実態に近くありながらも「男にとってはバツが悪いので」あまり頻繁には繰り返されない「物語」であった。娯楽映画でよく描かれる「男はヒーローたるべし」というのがいかに現実にそぐわない「男のささやかだが根強い願望」にすぎないことがよくわかる。

 話を冒頭に戻すと、1970年が一体何によって引き裂かれていたのかといえば、それは「急変した様相の若者の現実」と「若者の現実の急変ぶりを判っていながらも若者の現実を描けない、かつての若者の現実」によって、なのであった。

 最後に余談ながら、本作は関根恵子(後の高橋恵子)のデビュー作であるが、クレジットは「関根恵子(新人)」でも「関根恵子(第一回出演)」でもなく、「関根恵子(新スター)」である。

 (2013年2月6日)


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