あたまのなか研究室

ピクルス(2代目)とぶらいあん(初代)の研究室です。

すべての戦争は「正しい戦争」である

 先月末に放送された「朝まで生テレビ」を、後半1時間半ほど録画していたものであるが、観た。
 その回は「憲法」を扱ったもので、いつもとは少し違う議論があり興味深いものだった。
 しかしいくつか気になることもあったので、ここに書いておくことにする。

 ひとつは、保守論客が発言した「戦争には、いい戦争と悪い戦争がある(だからいい戦争はしてもよい)」というもの。
 これは保守ではよく言われる考えのようである。「いい戦争」というのは、おそらく防衛戦争のことをさしているのだろうが、一面において正しそうなこの考えは、ひどく大きな思慮が欠けている。

 仮に「いい戦争」か「悪い戦争」かが客観的データなどによって、正確に判断できるとしよう。
 正確に判断できるとしても、それは後世になって、少なくともその戦争が終わってからである、という認識が欠けている。
 実際には、戦争中、あるいは戦争前の状況において「この戦争は間違っている」と訴える人は存在する。
 しかしながら、そういう人は黙殺されるので、ほとんどの人は「そう主張している人がいた」ことは後になって知る。

 ケンカというものは「どちらも正しいがゆえに」成立する。
 どちらも「自分は正しい。相手は間違っている」と考えるから衝突するのである。

 戦争は、それが起ころうとする状況においては、どちらも「これは正しい戦争だ」と思っている。
 「これは間違った戦争だ。相手は悪くない」と思って宣戦布告して始まる戦争は、ない。
 帝国主義時代においては、領土拡大を理由として、自国より弱いと判断した国を攻めるということはあったであろう。
 しかしながらこれにしても、当時の感覚としては「領土拡大はよいことである。力が強いものが支配するのが正しい」と思っていたはずである。

 現代において「悪の帝国を作りあげるために世界征服を行う」という理由で戦争を始める国というのは、子供向きのフィクションの中にしか存在しない。
 現代における戦争(国家間、国家内に関わらず)のほとんどは「怨念からくる復讐」の形をとっている。(実際にはこの裏にカネと資源の欲望が隠れている場合が多いことはご存知の通りである)

 「戦争をはじめた側が悪い側で戦争をしかけられた側がよい側」と思っている人がいるかもしれない。
 しかし泥沼化している戦争においては、復讐の連鎖的状況になっているので、もはやどちらが先に始めたか、などということを完全にどちら側と判断することは極めて困難である。

 ただし、先ほど書いたように、ある程度時間を経て、正確なデータを基に、その戦争において、どちらが悪いかを判断することは(確率的に非常に低いとしても)可能かもしれない。それにしても100:0で悪と善である、と判断できることは「大国による小国(または地域)の侵略」をのぞいて非常に難しいだろう。

 話を最初に戻すと、「いい戦争と悪い戦争」がある、としてもそれは渦中においては判断できない。
 つまり、戦争中においては、どちらの側も「自分が正しい」と思っている。
 よって、すべての戦争は(その最中においては)「正しい戦争」である、ということが言えるのである。

 重要なのは、後世における戦争の評価である。歴史に学ばなければ、人間は同じ過ちを、何度でも繰り返す。

 「朝まで生テレビ」の放送終了間際、司会の田原総一朗氏は「(憲法に)権威は要らない!」と何度か叫んだ。
 その時、時間がないことを知らせようとしたアナウンサーが「過去の話もいいですが、未来の話も・・」というようなことを言った。
 (語句は正確ではない。「昔の話はこれくらいにして、いまの話も・・」だったかも知れない)

 このアナウンサーは大きな思い違いをしている。
 「過去は、未来(あるいは現在)と切り離された存在である」と考えている。だから「昔話をするのはやめてほしい」と思ったのである。

 現在や未来というのは、過去の延長線上にしか存在しえない。よって「過去と現在、未来」を切り離すことはできない。
 未来や現在を語る材料というのは、過去の集積でしかない。過去をどう評価するか、どう解釈するか、でしかあり得ない。

 よく、歴史に学べ、という。歴史に学ぶというのは過去に学ぶということである。
 しかし歴史に学べ、というのは「学べ(どうせ学ばんだろうけど)」ぐらいのニュアンスがあるのかもしれない。

 歴史を教訓としない者に未来はない。そう言った方が正確だと思う。


 もうひとつ「防衛戦争は正しい戦争である」という考えについて。

 確かに自衛行為は正当な行為である。

 しかしながら、戦争は「相手に先に攻撃させておいてその反撃によって始まる」あるいは「攻撃されたふりをして反撃と称して始まる」ことがいかに多いか。
 また、「攻撃されてからでは遅い。攻撃される前に反撃すべきである」というロジックがいかに多いことか。
 もはや、どちらが「自衛の為の戦争」であるか、見た目上で判断することは、極めて困難である。

 これらのことは歴史を顧みれば明白な事柄である。
 多くの為政者は、あらゆる見解を述べるとき、そして戦争を行うとき、歴史を引用して語る。
 しかし引用されるのは「自身に都合のいい歴史、都合のいい歴史解釈」であって「自身に都合の悪い歴史、都合の悪い歴史解釈」については語られない。

 歴史を教訓としない者に未来はない。「教訓とする」ということは、都合のいい歴史も悪い歴史も、すべて受け入れることである。

 それがわかっていて、あえて「都合の悪い部分にふたをする」ことが、いま、この社会において横溢しているように私には思えて仕方がない。


 (2012年8月15日)