「異能の人」がいなくなるとき
ハリウッドの俳優・ロビン・ウィリアムズが亡くなった。自殺と見られるという。63歳になったばかりだ。
私は彼のファンだという認識は特になかったが、何だか胃の辺りが差し込むように苦しくて仕方がない。
いま思うことは「彼は、多くのハリウッド映画に出演しているが、果たして正しく評価されてきただろうか?」ということだ。
彼はヘンな役ばかりやっている。
「大人なのに子供みたいな人」「善人すぎる人」「世捨て人」「変わった教師」「変わった学者」「一見善良そうな変質者」「ロボット」などなど。
よく映画でみかけるので、親しみを感じることが多いが、実際の役どころは「世の中の異端者」であることが多い。
日本でいうと、東野英治郎が近いポジションのような気がする。
「水戸黄門」でお茶の間の人気を得たがために親しみを持って受け止められることが多いように思うが、実際の役どころは相当ヘンなものが多い役者である。「善人すぎる人」が印象的だが、『警察日記』における「子供が戦死したために頭がおかしくなった男」が代表的だろう。
いずれにしても、似たような役が多いのは「他に換え難い役者」だからであり、この「異能の人」を失うことの映画界における損失は一般の観客が考えるよりも遥かに大きいということだ。(近年の出演傾向がどうこうというのはあまり関係がない)
個人的には内部の政治的な思惑が大きい賞にはあまり興味はないが、目安として述べると、アカデミー賞には主演男優賞ノミネートが3回、助演男優賞受賞が1回であるというのはいかにも少ないように思える。
おそらく「同じ水準の演技」をこなしているということが「いつもと同じ」と見られるからではないか、と思ったりもする。
しかしながら「同じ水準の演技」をずっとこなし続けることがいかに至難の技かというのは、スポーツ競技において最高の技術を持つ選手の場合だと賞賛され評価され続けることを鑑みると、映画役者の場合は不当なように思える。「同じような役どころを長年オファーされ続ける」ということの偉大さに気づく人はあまりいない。
私たちは、この異能な役者を失ったことの重大さを、おそらくまだわかってはいない。
「そうか。面白くていい役者だったのにね。残念だね。合掌」で次の瞬間には忘れてしまう人々ほどことの重大さはのちのち響いていくことだろう。本人の気がつかない間にゆっくりと身体を蝕む悪性腫瘍のように。
もう「あんな役どころ」を演じる人はいない。これは今後の脚本の書き方におけるキャラクターの配置にも影響していく話である。
「時代おくれだよ。もうあんなキャラクターは映画に必要ない」という人がいるならば、5年後10年後に、また必要とされるときがやってきたときに嘆いてももう遅いのだ。
もし、映画というものが私の身体だとすると、いま私は内蔵の器官のひとつを失ったような気分になっている。
失われたこの器官が戻って来ることは永久にない。
(2014年8月12日)