わけのわからない映画『鳥』
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。
さて、早速本題です。ヒッチコックの『鳥』は、映画における「恐怖の対象」を「人間」から「別の存在」にしたという意味で画期的でありますが、「動物」ということだけでなく「大自然」でも「建築物」でも「飛行機」でもなんでもいいのですが、つまりヒッチコックは「他者というよくわからない存在」を突き詰めた結果として、まったくわけがわからない存在を描くために「人間以外という究極の他者」を選んだということです。
それはデュ・モーリアの原作では明確にされていた鳥が襲う理由を「あえて明らかにしないこと」でも明らかです。
この映画を当時初めて観た人々が感じた恐ろしさは相当なものだったことでしょう。何しろ「パニック映画を観に行く」という心構えが存在しない時代において、この映画の「わけのわからないものが、わけもわからずに襲ってくる」という恐怖は、それまで観客が経験したことのなかったことだろうからです。(「わけのわからないもの」とは、今まで「鳥」だと思っていた存在が、予測しえない行為を行うことによって「今まで鳥だと思っていたものが、わけのわからない存在に揺らぐ瞬間」の混乱による認識を意味します)
この映画は動物パニック映画の祖と言えますが、ヒッチコックはこの映画を動物パニック映画というつもりで作った訳ではないでしょう。彼にとっては「人間の恐怖ではない何か」を描きたかっただけで、それが今回は動物であったということなのです。それは彼が、この映画がヒットしたにも関わらず、「動物の恐怖」を描いた映画をこの後二度と作らなかったことでもそれを証明していると言えるでしょう。
『鳥』公開から今年で50年。このようなことはすでに書かれていると思いますが、今日突然思いついたので書いてみました。
(2013年1月5日)