予告篇が映画を殺す
かつて「映画は不況に強い」と言われましたが、今の社会においては、貧困層はもちろん中間層においても「相対的に映画館代は高い」と感じる。これは例えば通信費が1万円位の若者にとって月給のうち使える金額は極めて制限されるからです。「映画選びに失敗したくない心理」もこれが原因。
近年若者の「映画館選びに失敗したくない心理」が浸透してしまった結果、何が起こったかというと「予告篇が、登場人物から粗筋から面白い場面や重要な場面から最後の意外な結末の手前まで説明するようになった」ことです。これで観客は少しでも安心して映画を観に行くことが出来る、と若者は言います。
若者に話を聞いてみると「どんな話かわかった上で安心して観たい」と言いますが、それって乱暴に言えば「(自分の人生が不安なので)自分の人生がどうなるか知った上で安心して生きたい」と言っているのと同じなのでは。人生は先が判らないから面白いように、映画も先が判らないから面白いはず、では。
近年の予告篇はひどい。もともと予告篇は本質的に「作品とは別の、単なる集客用映像」であり、ほとんどは監督がタッチしていないはず。だから勝手に「予告篇が解釈をリードしたり、一番面白い場面を出してしまったり」する。これは本篇の面白さを減じたり、誘導解釈をさせる「映画殺し」だと思います。
(2014年11月3日、Twitterにて発表)
<追記:Twitterにおける反応について>
Twitterで上記の文章をツイートしたあと、なぜか1つのツイート(上記2段落目)だけが突出してリツイートされ、ちょっと驚き。
理由がよく判らないのですが、可能性としては、
1)「ほお、それは知らなんだ」
2)「そうそう、そうなんだよ。困るよね、この傾向は」
3)「そうそう、そうなんだよ。判ってるね、僕たちのことを」
この3つに大きく別れるような気がします。特に、2と3では似て異なるところが、リツイートをしたご本人に伺わないと判らないところではあります。
(2014年11月6日)