あたまのなか研究室

ピクルス(2代目)とぶらいあん(初代)の研究室です。

『物体X』が描く社会状況

 先日『遊星からの物体X ファースト・コンタクト』を観た。3度目の映画「THE THING」である。
 本作は原作に一番近いと言われる2度目の映画化の前日譚の形をとった続編である。

 前作を意識しながらも違ったアイデアを盛り込み、クリーチャーの造形も前回を上回るものとなっている。前作の発端につながるエンディングの場面ではちょっと感動すら覚えた。
 でもこれは、前作にある程度思い入れのある観客のノスタルジーなのかもしれない。
 映画の出来としては前作の不穏なムード、不気味なエンディング、といったものにはかなわなかった。いろんな意味で前作に縛られてしまう続編としてはかなり健闘した部類だとは思うが、前作を越えることはできなかった。
 しかし、アメリカでの興行成績(たぶん日本も)ほどひどい映画ではなかった。水準以上の作品ではある。

 基本的にこの映画(前作を含めて)は「血しぶきの飛ばないスプラッター映画」だと認識している。(第1作は、スリラーである)
 もっとあけすけな言い方をすると、多くの観客は意識していないだろうと思うが、これは「殺人ポルノ映画」の一種でもある。人間を切り裂く/切り裂かれる場面は、極端に戯画化されたポルノ的殺人行為だからである。
 なので、多くの観客(男性)がスプラッシュなシーンを求める「閉じたジャンル映画」になってしまっているのだ。
 そこが、この映画が少数の熱狂的なファンに支えられている(一般客を敬遠させる傾向がある)理由である。

 しかしこの映画(特に前作)があれだけ映画ファンに受けたのは、そういうことだけではない。
 「誰がエイリアン(に寄生されている)かわからない、というミステリー要素」があるから、でもない。

 この映画が、現代社会に顕著に見られる「閉じた共同体における相互不信」を描いているからである。
 
 「こいつは、姿形は昨日と同じだが、中身は違うのかもしれない」という意識は、例えば「思想的に洗脳されたかつての友人に対する不安」を現している。アメリカで言えば、かつてなら共産思想、今ならイスラム教、にあたるのかもしれない。

 「こいつは、姿形は我々と同じだが、中身は違うのかもしれない」という意識は、例えば「同じ国の人間であるが、出自は違う人間に対する無自覚な差別意識」を現している。例えば、ユダヤ人や移民であることを隠しているアングロサクソンアメリカ人などである。

 特に後者の意識が顕著であるが、これは要するに潜在的排外主義である。

 エイリアンとは異邦人、つまりよそ者のことだが、かつての「外国人=何を考えているかわからないよそ者」という意識をあからさまに出すと今では非難されるので、宇宙人としているだけである。これは製作者側もほとんど無自覚だと思われる。
 (宇宙人を特定の国の人間たちの暗喩として確信的に描いたのは小説『猿の惑星』のピエール・ブールくらいだろう)

 ウェルズの「宇宙戦争」以来、「宇宙人=侵略者、悪人」という意識は何の批判もなく受け入れられている。(そういう意味で『未知との遭遇』はかつてないほどに画期的だった。これはスピルバーグユダヤ人ということと無関係ではない)

 エイリアンとは「外国人、異宗教人、異文化人」の暗喩である。社会は無自覚に「よそ者」を排除したいと思っている。そしてその醜さを見事に描いた映画が『遊星からの物体X』なのである。
 この映画(前作の方)のエンディング、生き残った自分ともう一人の男がいる。もう一人の男が「よそ者」かどうかはわからない。しかし彼と生きていくしかない。それはこの社会の意識を見事に捉えた瞬間だった。

 我々はよそ者と生きていく。しかしよそ者は何を考えているか自分にはわからないが、向こうにしても、それは同じこと。

 よそ者とは、私たち自身のことでもあるのだ。

 (2012年8月25日)



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