あたまのなか研究室

ピクルス(2代目)とぶらいあん(初代)の研究室です。

祝!来日公演記念 ビギナーでもわかる『ビーチボーイズ物語』

 以下は、ビーチボーイズのヒストリーを、多少の誇張表現はありますが、実際の出来事に基づいて、わかりやすく書いたものです。
 全34話を5夜にわたってTwitterにて発表したものを加筆修正のうえ再録しました。


ビーチボーイズ物語1】カリフォルニアの明るいウィルソン一家は音楽大好き。ブライアン、デニス、カールのウィルソン兄弟はいとこのマイク・ラブと友人のアル・ジャーディンとハーモニーバンド「ペンデルトーンズ」を結成。早速噂を聞きつけたローカルレーベルからシングルデビュー決定しちゃったよ!

ビーチボーイズ物語2】1961年12月シングル「サーフィン」をリリース!ところがマネジャーにバンド名を勝手に「ビーチボーイズ」とされてしもた。あれれ。サーフィンなんかデニス以外したことないのに。そもそもリーダーのブライアンは泳げもしないよ。でもデビューしたし。ま、いっか。

ビーチボーイズ物語3】見事「サーフィン」はローカルヒット!大手キャピトルに目をつけられ早くもメジャーデビュー!そして「Sweet Little Sixteen」の替え歌(後で裁判になる)「サーフィンUSA」が全米でヒット!やったぜ!それからサーフィン&ホットロッドのヒット連発だ!!

ビーチボーイズ物語4】アルバムも次々にリリースして売れまくる!!ライブツアーは大成功!!女の子は失神しまくりだ!!ブライアンは作曲の才能が開花!!どんどん名曲が生まれるよ。ようし次はセルフプロデュースだ!!ところが親父のマーリーがうるさく口を出しまくる。うっとうしいなあ・・。

ビーチボーイズ物語5】実はマーリーはもともとミュージシャンで、家ではいつもレコードがかかり、ピアノにあわせて一家が歌う、そんな環境だったのはマリーによるところが大だった。しかしマリーはミュージシャンとしては成功せず、マリーは子供たちに音楽含めて厳しいしつけを行っていたのだ・・。

ビーチボーイズ物語6】しかしブライアンはセルフプロデュースを行い、アルバムはヒットを続ける。いつの間にキャピトルとは年に3枚アルバムを出す契約に。ブライアンに襲いかかる連続リリースの重圧、マリーの圧力、各地を転々とするライブツアー疲れ。そしてついに迎えた64年12月23日!

ビーチボーイズ物語7】その日も次のライブに向かうため、彼らは自家用ジェットで移動中。遂にブライアンは爆発した!「もおイヤだ!!ライブなんて行かない!!しないよ!!僕は曲を作りたいだけなんだ!!降ろせ!!降ろせ〜!!」それからブライアンがライブに姿を見せることはありませんでした。

ビーチボーイズ物語8】ブライアンは曲作りに励んだ。ビートルズの新作が出ると、これ以上のアルバムを作ってやるぞと意気込んだ。66年、メンバーがワールドツアーから帰ってくると、ブライアンはメンバーに言った。「どこに行ってたんだよ!(※日本です)すんごいアルバムが出来たんだよ!!」

ビーチボーイズ物語9】そのアルバムは既にスタジオミュージシャンによって曲入れされ、ガイドヴォーカルに沿って歌を入れるだけとなっていた。アルバムを最初に聴いたマイクはブライアンにこう言った。「なんだこりゃ?こんなの誰が聴くんだ!犬か?」ここに問題作『ペット・サウンズ』は誕生した。

ビーチボーイズ物語10】今ではロック史上最高のアルバムとも言われる『ペットサウンズ』だったが、高度で複雑なメロディ、サーフィンに関係ない抽象的な詩世界は当初理解されなかった。エンディング曲「キャロライン・ノー」が終わった後の踏切の音と犬が吠える声は当時としては前衛的すぎていた。

ビーチボーイズ物語11】終わりゆく少年期の恋の想いを歌った名曲「キャロライン・ノー」はシングル・カットされた時なぜかブライアン・ウィルソン名義だった。これはこの曲がビーチボーイズらしくないことやアルバムがブライアン独善で制作されたことと無関係ではないだろう。奇妙なソロ盤だった。

ビーチボーイズ物語12】そして『ペットサウンズ』は発売された。ファンクラブさえこのアルバムをどう評価していいかわからずうろたえた。このアルバムに不服なキャピトルはプロモートを妨害したばかりか、1週後に「ザ・ベスト・オブ・ビーチボーイズ」を発売するという信じられないことをした!!

ビーチボーイズ物語13】初のベストアルバムはチャート連続1位で何百万枚も売れたが『ペットサウンズ』は10位を最高としてチャートから消えた。しかしブライアンはくじけず曲作りを続ける。恐ろしく複雑な構成をしたポップソング「グッド・ヴァイブレーション」はシングルチャート1位になった!

ビーチボーイズ物語14】気をよくしたブライアンは続けて「英雄と悪漢」を作り、これらを含めた新しいアルバム『ダム・エンジェル』の制作を開始。野菜を食べる音を録音したり消防士の衣装で挑む、前作以上に実験的な作りでブライアンは取り憑かれたようになった。音楽のためにドラッグもやり放題。

ビーチボーイズ物語15】構想は膨らみ、予算は膨大化し、リリース日はなかなか決まらない。業を煮やしたキャピトルは『ダム・エンジェル』改め『スマイル』をポスターとともに発売日予告を打つという強引な手段に出た。追いつめられるブライアン。間に合わない。出来ない。僕には出来ないんだ・・。

ビーチボーイズ物語16】そしてブライアンは「駄目な僕」になった。制作チームは解散。ブライアンは家に引きこもり何もしなくなった。目はうつろ。突然叫んだり、意味不明なことをぶつぶつとつぶやいたりした。「ドラッグ中毒と・・おそらく、幼児期の虐待が原因ですね」と医者は言った。

ビーチボーイズ物語17】完成しなかった『スマイル』は、いくつかの曲を流用して『スマイリー・スマイル』というアルバムになった。そしてビーチボーイズの凋落が始まった。時代はヒッピー/フラワームーヴメント。ストライプシャツを着て歌う彼らは、時代遅れそのものに写ったのだった。

ビーチボーイズ物語18】実際には彼らはもうサーフィンソングは歌ってなかった。若者向けフェスに積極的に参加、デニスは良心的兵役忌避をした。心情は同時代の彼らと変わることはなかったが、ついてしまったイメージは払拭できなかった。人気は急降下し、遂にはキャピトルから契約解除された・・。

ビーチボーイズ物語19】60年代は怪しいとりまきも多かった。デニスは売れないミュージシャンのチャーリーと友人で、彼の曲を自分名義でアルバムにもぐりこませたりしていたが、彼の”ファミリー”は、69年に全米を震撼させるシャロン・テイト刺殺事件を起こし、60年代の夢を叩き壊していた。

ビーチボーイズ物語20】チャールズ・マンソンのファミリー。それは恐るべきカルトだった。彼の曲をデニス名義でアルバムに収録する際歌詞を変えてリメイクしたことに彼は腹を立て、デニスへの報復を示唆した。彼が刑務所から出て来ることはあり得なかったが、デニスやメンバーは恐怖したのだった。

ビーチボーイズ物語21】彼らはワーナー配下のリプリーズに移籍、独立レーベル「ブラザー」を立ち上げる。時代は70年代。『スマイル』未発表曲を小出しにしながら、オランダで制作したり、黒人2人をメンバーに加えたり、試行錯誤を続けていた。しかしアルバムチャートは超低空飛行状態だった。

ビーチボーイズ物語22】76年、デビュー15周年を記念して「ブライアンが帰ってくる!(Brian is Back!)」キャンペーンを行う。久々にブライアンがツアーに参加、新曲作りもする。しかしこれはプロモーション先行の話題作りで、ブライアン完全復帰にはほど遠いものだった・・。

ビーチボーイズ物語23】それでも今までどの精神科医も果たせなかっブライアンの薬物乱用や過食症のリハビリが、ユージン・ランディ博士によって成功する。しかしブライアンはランディにコントロールされるようになり、ソロアルバムを作らされるようになっていった。メンバー間の確執は深まっていく。

ビーチボーイズ物語24】そして83年の年末、最悪の出来事が。海でデニスが溺死体で発見されたのだ。泥酔したあげく海に飛び込んだ、と発表された。オリジナルメンバーで唯一のサーファーだったデニスが39歳の若さで死ぬなんて、誰も考えもしなかった。一体バンドはどうなってしまうのか・・。

ビーチボーイズ物語25】デニスの死にメンバーは深い失意に陥っていた。しかしこれが、皮肉にも離れかけていたメンバーの結束を深めることになった。彼らは記者会見を行い、グループを継続することに決めた、と発表した。そして、80年以降止まっていたアルバム制作を再開するのだった。

ビーチボーイズ物語26】85年、実に5年ぶりとなるアルバム『ザ・ビーチ・ボーイズ』発売。ライブエイドにも参加した。しかしシングル「ゲッチャ・バック」はヒットしたものの、アルバムはパッとしなかった。そしてブライアンは、ユージン主導のもとソロ活動に傾いていくのであった。

ビーチボーイズ物語27】ブライアンは遂にファーストアルバムを発表。続いてシングルを発売した。ところがブライアン抜きのビーチビーイズが同日発売した映画主題歌「ココモ」が大ヒット!なんと22年ぶりのチャート1位に輝いた。そのおかげで翌年、4年ぶりのアルバムも制作することができた。

ビーチボーイズ物語28】ブライアンはファーストアルバム発表の後、91年第2作は完成したがお蔵入り。95年サントラの形をとった新録集と『スマイル』の盟友ヴァン・ダイク・パークスとのアルバムをリリース。そして98年オリジナルアルバム『イマジネーション』で完全復活(そして翌年初来日)する!!

ビーチボーイズ物語29】ビーチボーイズ本体は92年のアルバムを最後にリリースが途絶えていたが、98年グループ最後の主柱であったカールががんで死亡。ここでビーチボーイズの空中分解は決定的になった。マイク・ラブとブルース・ジョンストンはビーチボーイズ名義を継ぎ、ライブ活動を行う。

ビーチボーイズ物語30】アル・ジャーディンは、ブライアンの娘たちカーニー&ウェンディ(ウィルソン・フィリップス/ウィルソンズ)らと組んで「ビーチボーイズ・アンド・フレンズ」として活動を行う。マイク組、アル組、そしてソロのブライアンと、ビーチボーイズは事実上3つに分裂した。

ビーチボーイズ物語31】しかしアルはマイクに「ビーチボーイズ」名義を使うなと訴えられ、裁判の結果、アルが敗北。バンド名を「アル・ジャーディン・アンド・フレンズ」に変更する。マイク組は往年のサーフィン懐メロライブバンド、アル組はウォームな手触りのライブグループとして活動する。

ビーチボーイズ物語32】ちなみにブルース・ジョンストンは64年にブライアンがライブを離脱後のツアーメンバーとして参加しそのまま正式に加入。「ディズニー・ガール」が名曲として有名。デヴィッド・マークスはごく初期にアルが「歯医者になる!」と言って一時期離れていたときのメンバー。

ビーチボーイズ物語33】もうオリジナルメンバーでのリユニオンは見られないだろうと思われていた2011年、50周年としてグループが再結成。しかもワールドツアーとアルバムの制作も発表した。そして12年6月4日『神が創りしラジオ』がリリース。実に20年ぶりのオリジナルアルバムだった。

ビーチボーイズ物語34】『神が創りしラジオ』はチャート3位を記録した。ブライアンの優れた楽曲とオリジナルメンバーの見事なコーラスワーク。再結成だけでも信じられないのに、この完成度は予想外。そしてこの8月、ブライアンメインとしては初の来日公演が実現。これはもう・・素敵じゃないか!

 (2012年8月11〜16日のぶらいあんのTweetより。一部の語句を加筆修正)